学部長(総務会)平日ほぼほぼ毎日日誌

附属山口中学校 校長式辞に思うこと。

 皆さんこんにちは。山口地区附属担当副学部長の佐野之人です。本日は縁あって4月8日に参列することができた附属山口中学校の前原校長先生の式辞をご紹介し、それについて考えたことを述べさせていただければと思います。

 この式辞をご紹介するのは、それに私が大変感銘を受けたからです。無駄な言葉はほとんどありませんでした。その中心部分をなすものは以下の通りでした。

 

今日は、「人はなぜ学ぶのか」についてお話ししたいと思います。

皆さんは、受験に合格して今この場所にいます。けれども、その勉強は、何の役に立つのでしょうか。

大人も勉強しますが、それは仕事に必要な内容に限られています。勉強しなければならない理由がはっきりしているのです。

ですから、大人は国語も数学も勉強しません。 

では、皆さんは、ここで何を何のために学ぶのでしょうか。

その答えの一つ目として、

ある人は、「勉強って言うのは、わからない、ということに慣れる練習をしているんだ。」と言っています。〇✖で正解が出るのは、ペーパーテストの世界だけ。本当の社会は、複雑でわからないことだらけです。そのわからないことを面白いと思うことができるよう、勉強でトレーニングするのです。

答えの二つ目は、大阪のお好み焼きやさんに入ったとき、箸袋に書いてありました。

そこには「やったらわかる、わかるとは変わること」と書いてあったのです。お好み焼き屋の職人さんは、親方から「こうやって焼くんだ。わかったか」と言われ「はい」と答えたら、行動が変わらなくてはならないのです。前のままなら「わかっとらんやないか」と怒られます。

私は、お好み焼き屋さんで、学ぶと言うことは、行動を変えると言うことだ、と教えてもらった気がします。

答えの3つ目は、イギリスの登山家が、山に登る理由を答えた中にありました。「なぜ山に登るのかと問われた彼は、「そこに山があるから」と答えたそうです。

むこうに山が見える。その山を登ったら、またその向こうに高い山があった。だから、そこにある山に登るのだそうです。

一生懸命勉強して、ある地点に達する。すると、そこからしか見えない新しい世界が開けてくる。人は、その向こうにあるものをめざして、また次の一歩を踏み出すのです。

勉強する目的に、本当の答えはありません。ただ、

その1、わからないことに向き合う楽しさを知ること、

その2、学んで行動を変えること、

その3、新しい目標を見つけること、

この3つは、皆さんにも気づいてほしいと思います。

附属山口中学校は、永遠の問いである「なぜ勉強するのか」の答えを、みんなで探し続ける学校でありたいと思います。

  

 いかがでしょうか。「人はなぜ学ぶのか」についての「本当の答えはない」「永遠の問い」であるとしながら、生徒に「気づき」を要求しています。答えは教わるものではなく、それを探し続ける中で気づいていくものだと言っているのです。「答え」が三つ挙がっているように見えますが、これらもよく考えて見れば、じつはどれも「答え」ではない、「答え」を超越したものであることが分かります。

 第一の「答え」は「分からないことに慣れる」というものです。「分からない」とは「答えのないこと」です。「人はなぜ学ぶのか」という問いに対して「答えのないことに慣れろ」と言っていることになります。そうしてその中に〈答えが分かる〉よりもさらに深い「楽しさ」がある、それに気づけ、と言っているのです。

 「答え」の第二は「やったらわかる。わかるとは変わること」でした。これも「なぜ学ぶのか」の答えにはなっていません。変わってみて、つまり学んだあとになって分かることだからです。これも自ら気づく以外にありません。

 第三は「そこに山があるから」というものです。「なぜ学ぶのか」についていえば、学びたいから学ぶ、というわけです。これも答えにはなっていませんね。またこうした意欲を支えているのは学んでみたら「そこからしか見えない新しい世界が開けた」という経験です。これも自分で気づいてみないことにはどうにもなりません。

 「何故」「何のために」は「目的」を求める問いです。それに対して上の三つの「答え」はそうした目的(答え)のない所、目的(答え)を超えた所、目的(答え)を問題にしない所を以てその「答え」としていることが分かります。ですから三つの答えは実はどれも答えではないのです。

 「答えのない時代」ということが言われるようになりました。従来のように科学技術の発展と経済の繁栄だけを目指していけばよいという時代は過ぎたということでしょう。それでもなお「納得解」「最適解」というように「答え」を出すことの方に重点が置かれているように思われます。答え=結果を出し、社会の評価を受けた者のみが生き残れる、そうした文化がなお我々を駆り立て、圧迫し、疲れさせています。しかし「答えのない時代」を生きる人間を育てるということは、文字通り答えのない問いに直面させ、それをどこまでも学ぶことの楽しさ、喜びを自ら見出す、そういう〈答えを超越した人間〉を育てるということだと思います。その意味では式辞の趣旨は時代の最も先を行くものである、そのように感じた次第です。

 そうして最後に私見を述べさせていただければ、答のない問いにして、学ぶべき最大の問いは、そのように問うている自分、すなわち「人間とは何か」ということであり、学ぶべき最大のものは自らがその身に生まれた「人間」だということです。「人間」(人格の完成)にまで育てる教育はまさに「人間を学ぶ」教育でなければならないはずです。我々は自分が人間であることを分った気でいますが、「人間」はどこまでも分からない。その意味で「人間を学ぶ」教育は同時に、どこまでも分からない「人間に帰る」教育でもあるはずです。こういうことが本気で考えられる時代はいつになったらやって来るのか。あるいはもう、すぐそこに来ているのかもしれません。

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(担当:佐野)

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